僕が育った伊勢志摩の離れ島「間崎島」というところは、今では廃校になってしまった小学校しかない、 自然豊かでとても美しい島で、そこで僕は生まれてから高校を卒業するまでを過ごしました。

中学、高校とは島を出て通わなければならないのですが、その頃立ち寄ったあるパン屋さんが その後の僕の人生を決めてしまったと言っても過言ではないですね。

開放されたオープンキッチンと、お客様の手で商品を選ぶと言うスタイルは今でこそ珍しくないですが、扉を開けたとたんに溢れる香ばしい匂いとか、商品を手に取れる臨場感、 それに手の届くところにある厨房から感じられるライブ感というものは 当時の僕にとっては大きな衝撃であり、感動でもあったんです。

一発で、こういうのが自分の職業になったらいいな、自分もこういう仕事がしたい、そう思いました。

以来、実は僕はパン屋さんになりたいと思い続けたんです。

ところが、あるとき友人に「パン屋は朝早いししんどいからやめとけ」 「パン屋になるにはまずケーキ屋になった方がいい」などと言われ、ケーキ屋になればパン屋にもなれるんだ、と単純に思った。

今考えるとおかしな話ですけどね(笑)
とにかくそのときの僕はそう信じたんです。

最初の修行先となるお店が決まったのは、高校2年のことでした。
就職先が決まったのは仲間内で一番という早さでしたが、それからはもうお菓子作り一直線という感じでしたね。

でも決して順調というわけではなくて、挫折や悩みなど勿論ありました。

20歳くらいの頃かな、洋菓子とは何や?という事に頭を悩ませ始めました。

和菓子ならわかる。日本の伝統だし、文化の一部でもある。

だけど洋菓子の原点はやはりヨーロッパ、お菓子といえばドイツ、洋菓子を知るには日本にいてはわからない、自分の目で本場を見なければいけない、そう硬く思うようになったんです。

それからはもう、試行錯誤です。向こうへ行ってもやっていけるよう、言葉を覚えるために語学学校へ通ったり、より本場的な雰囲気、システムを採用しているお店を紹介してもらったり、ただただヨーロッパに行きたい、そんな気持ちでいっぱいでした。

そうして情報を集めていくうちにたどり着いたのが、僕にとって最後の修行場となる大阪のお店でした。

そこでは8年間お世話になったのですが、勉強させていただいたという思いが特にありますね。
パティシェとしての仕上げをしてもらったという感覚です。

そこでの日々があって、今の僕につながっていると思っています。

独立は34歳のときでした。

僕がお店を開く場所と決めていた志摩で、最初は19坪ほどの小さなお店を高ヲました。

厨房が約10坪ほどしかなく、裏と言える裏もなく、売り場から全てが見えているというような状態でした。

しばらくして隣のテナントスペースに空きができて、頑張って借りて初めて喫茶スペースを作ったのですが、 有り難いことにお店が繁盛し始め、どうにも手狭になってしまった。

そこで、ある程度ゆったりとしたスペースを確保できる賢島保養地内に移転することを決めたんです。

伊勢志摩は観光地でもあります。

ここで生まれた人間がここでお菓子を作っているという事で、より伊勢志摩を感じてもらえるようになりたい。

そういう意味で賢島保養地という地域は、伊勢志摩を阜サしやすい代蕪Iな土地でもあるんですね。

これからもここでお菓子を作り続け、志摩を感じていただけるお菓子を発信し続けていきたいと考えています。